走れメロス

Pitch accent notes

  • メロス is rendered Atamadaka めろす [1] and appears 76 times, one proper noun accounting for 14.2% of every Atamadaka word counted in the story. Its counterweight セリヌンティウス appears 15 times as Nakadaka [5] across seven morae, so the two names sit at opposite ends of the accent map.
  • 走る is Nakadaka はしる [2], and as a 五段 verb it keeps that drop through its 〜て/〜た forms: 走っ [2] occurs 10 times. The conjugated stems move it instead, to 走り [0] in 連用形 and 走ら [3] before 〜ない, while the imperative of the title itself, 走れ [2], appears exactly once in the entire text, at the climax 「走れ! メロス。」
  • 沈む is lexically Heiban [0], but the archaic 〜ぬ negation forces a drop: 沈ま is rendered [3] in all four occurrences of the story’s deadline refrain 「まだ陽は沈まぬ」. The same Heiban-verb-before-〜ぬ rule fires 9 times overall and ならぬ appears 13 times, making this text unusually dense in a pattern modern prose rarely triggers.
  • Bare 王 appears 19 times as Atamadaka おう [1], yet every compound built on it flattens to Heiban: 王城 おうじょう [0] 5 times and 王様 おうさま [0] 4 times. 暴君 is rendered Atamadaka ぼうくん [1] 6 times with Heiban [0] flagged as a common alternative, so the opening’s tyrant vocabulary forms a compact cluster worth inspecting.
Source text: 青空文庫 Pitch accent analysis: akusento parser
Legend
Atamadaka
Heiban
Nakadaka
Odaka
Kifuku
Accent drop
Devoiced
Rules applied
* Patterns are assigned based on the lexical pitch accent.
Rendered chapter

メロスは激怒げきどした。必かならず、かの邪智じゃち暴虐ぼうぎゃくの王おうを除のぞかなければならぬと決意けついした。メロスには政治せいじがわからぬ。メロスは、村むらの牧人ぼくじんである。笛ふえを吹ふき、羊ひつじと遊あそんで暮くらして来きた。けれども邪悪じゃあくに対たいしては、人ひと一いち倍ばいに敏感びんかんであった。きょう未明みめいメロスは村むらを出発しゅっぱつし、野のを越こえ山やま越こえ、十じゅう里りはなれた此このシラクスの市しにやって来きた。メロスには父ちちも、母ははも無ない。女房にょうぼうも無ない。16じゅうろくの、内気うちきな妹いもうとと二人暮ふたりぐらしだ。この妹いもうとは、村むらの或ある律気りちぎな一いち牧人ぼくじんを、近々ちかちか、花婿はなむことして迎むかえる事ことになっていた。結婚けっこん式しきも間近まぢかかなのである。メロスは、それゆえ、花嫁はなよめの衣裳いしょうやら祝宴しゅくえんの御ご馳走ちそうやらを買かいに、はるばる市しにやって来きたのだ。先まず、その品々しなじなを買かい集あつめ、それから都みやこの大路おおじをぶらぶら歩あるいた。メロスには竹馬ちくばの友ともがあった。セリヌンティウスである。今いまは此このシラクスの市しで、石工いしくをしている。その友ともを、これから訪たずねてみるつもりなのだ。久ひさしく逢あわなかったのだから、訪たずねて行いくのが楽たのしみである。歩あるいているうちにメロスは、まちの様子ようすを怪あやしく思おもった。ひっそりしている。もう既すでに日ひも落おちて、まちの暗くらいのは当あたりまえだが、けれども、なんだか、夜よるのせいばかりでは無なく、市し全体ぜんたいが、やけに寂さびしい。のんきなメロスも、だんだん不安ふあんになって来きた。路みちで逢あった若わかい衆しゅをつかまえて、何なにかあったのか、二に年ねんまえに此この市しに来きたときは、夜よるでも皆みなが歌うたをうたって、まちは賑にぎやかであった筈はずだが、と質問しつもんした。若わかい衆しゅは、首くびを振ふって答こたえなかった。しばらく歩あるいて老爺ろうやに逢あい、こんどはもっと、語勢ごせいを強つよくして質問しつもんした。老爺ろうやは答こたえなかった。メロスは両手りょうてで老爺ろうやのからだをゆすぶって質問しつもんを重かさねた。老爺ろうやは、あたりをはばかる低声ていせいで、わずか答こたえた。

「王おう様さまは、人ひとを殺ころします。」

「なぜ殺ころすのだ。」

「悪心あくしんを抱いだいている、というのですが、誰だれもそんな、悪心あくしんを持もっては居おりませぬ。」

「たくさんの人ひとを殺ころしたのか。」

「はい、はじめは王おう様さまの妹婿いもうとむこさまを。それから、御ご自身じしんのお世嗣よつぎを。それから、妹いもうとさまを。それから、妹いもうとさまの御子おこさまを。それから、皇后こうごうさまを。それから、賢臣けんしんのアレキス様さまを。」

「おどろいた。国王こくおうは乱心らんしんか。」

「いいえ、乱心らんしんではございませぬ。人ひとを、信しんずる事ことが出来できぬ、というのです。このごろは、臣下しんかの心こころをも、お疑うたがいになり、少すこしく派手はでな暮くらしをしている者ものには、人質ひとじちひとりずつ差さし出だすことを命めいじて居おります。御ご命令めいれいを拒こばめば十字じゅうじ架かにかけられて、殺ころされます。きょうは、六人ろくにん殺ころされました。」

聞きいて、メロスは激怒げきどした。「呆あきれた王おうだ。生いかして置おけぬ。」

メロスは、単純たんじゅんな男おとこであった。買かい物ものを、背負せおったままで、のそのそ王城おうじょうにはいって行いった。たちまち彼かれは、巡邏じゅんらの警吏けいりに捕縛ほばくされた。調しらべられて、メロスの懐中かいちゅうからは短剣たんけんが出でて来きたので、騒さわぎが大おおきくなってしまった。メロスは、王おうの前まえに引ひき出だされた。

「この短刀たんとうで何なにをするつもりであったか。言いえ!」暴君ぼうくんディオニスは静しずかに、けれども威厳いげんを以もって問といつめた。その王おうの顔かおは蒼白そうはくで、眉間みけんの皺しわは、刻きざみ込こまれたように深ぶかかった。

「市しを暴君ぼうくんの手てから救すくうのだ。」とメロスは悪わるびれずに答こたえた。

「おまえがか?」王おうは、憫笑びんしょうした。「仕方しかたの無ないやつじゃ。おまえには、わしの孤独こどくがわからぬ。」

「言いうな!」とメロスは、いきり立たって反駁はんばくした。「人ひとの心こころを疑うたがうのは、最もっとも恥はずべき悪徳あくとくだ。王おうは、民たみの忠誠ちゅうせいをさえ疑うたがって居おられる。」

「疑うたがうのが、正当せいとうの心構こころがまえなのだと、わしに教おしえてくれたのは、おまえたちだ。人ひとの心こころは、あてにならない。人間にんげんは、もともと私慾しよくのかたまりさ。信しんじては、ならぬ。」暴君ぼうくんは落着おちついて呟つぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和へいわを望のぞんでいるのだが。」

「なんの為ための平和へいわだ。自分じぶんの地位ちいを守まもる為ためか。」こんどはメロスが嘲笑ちょうしょうした。「罪つみの無ない人ひとを殺ころして、何なにが平和へいわだ。」

「だまれ、下賤げせんの者もの。」王おうは、さっと顔かおを挙あげて報むくいた。「口くちでは、どんな清きよらかな事ことでも言いえる。わしには、人ひとの腹綿はらわたの奥底おくそこが見みえ透すいてならぬ。おまえだって、いまに、磔はりつけになってから、泣ないて詫わびたって聞きかぬぞ。」

「ああ、王おうは悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私わたしは、ちゃんと死しぬる覚悟かくごで居いるのに。命乞いのちごいなど決けっしてしない。ただ、――」と言いいかけて、メロスは足あしもとに視線しせんを落おとし瞬時しゅんじためらい、「ただ、私わたしに情なさけをかけたいつもりなら、処刑しょけいまでに三日間みっかかんの日限にちげんを与あたえて下ください。たった一人ひとりの妹いもうとに、亭主ていしゅを持もたせてやりたいのです。三日みっかのうちに、私わたしは村むらで結婚けっこん式しきを挙あげさせ、必かならず、ここへ帰かえって来きます。」

「ばかな。」と暴君ぼうくんは、嗄しわがれた声こえで低ひくく笑わらった。「とんでもない嘘うそを言いうわい。逃にがした小鳥ことりが帰かえって来くるというのか。」

「そうです。帰かえって来くるのです。」メロスは必死ひっしで言いい張はった。「私わたしは約束やくそくを守まもります。私わたしを、三日間みっかかんだけ許ゆるして下ください。妹いもうとが、私わたしの帰かえりを待まっているのだ。そんなに私わたしを信しんじられないならば、よろしい、この市しにセリヌンティウスという石工いしくがいます。私わたしの無二むにの友人ゆうじんだ。あれを、人質ひとじちとしてここに置おいて行いこう。私わたしが逃にげてしまって、三日みっか目めの日暮ひぐれまで、ここに帰かえって来こなかったら、あの友人ゆうじんを絞しめ殺ころして下ください。たのむ、そうして下ください。」

それを聞きいて王おうは、残虐ざんぎゃくな気持きもちで、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なまいきなことを言いうわい。どうせ帰かえって来こないにきまっている。この嘘うそつきに騙だまされた振ふりして、放はなしてやるのも面白おもしろい。そうして身代みがわりの男おとこを、三日みっか目めに殺ころしてやるのも気味きみがいい。人ひとは、これだから信しんじられぬと、わしは悲かなしい顔かおして、その身代みがわりの男おとこを磔刑はりつけに処しょしてやるのだ。世よの中なかの、正直しょうじき者ものとかいう奴輩やつばらにうんと見みせつけてやりたいものさ。

「願ねがいを、聞きいた。その身代みがわりを呼よぶがよい。三日みっか目めには日没にちぼつまでに帰かえって来こい。おくれたら、その身代みがわりを、きっと殺ころすぞ。ちょっとおくれて来くるがいい。おまえの罪つみは、永遠えいえんにゆるしてやろうぞ。」

「なに、何なにをおっしゃる。」

「はは。いのちが大事だいじだったら、おくれて来こい。おまえの心こころは、わかっているぞ。」

メロスは口惜くやしく、地団駄じだんだ踏ふんだ。ものも言いいたくなくなった。

竹馬ちくばの友とも、セリヌンティウスは、深夜しんや、王城おうじょうに召めされた。暴君ぼうくんディオニスの面前めんぜんで、佳よき友ともと佳よき友ともは、二に年ねんぶりで相あい逢おうた。メロスは、友ともに一切いっさいの事情じじょうを語かたった。セリヌンティウスは無言むごんで首肯うなずき、メロスをひしと抱だきしめた。友ともと友ともの間あいだは、それでよかった。セリヌンティウスは、縄なわ打うたれた。メロスは、すぐに出発しゅっぱつした。初夏しょか、満天まんてんの星ほしである。

メロスはその夜よる、一睡いっすいもせず十じゅう里りの路みちを急いそぎに急いそいで、村むらへ到着とうちゃくしたのは、翌あくる日ひの午前ごぜん、陽ひは既すでに高たかく昇のぼって、村人むらびとたちは野のに出でて仕事しごとをはじめていた。メロスの16じゅうろくの妹いもうとも、きょうは兄あにの代かわりに羊群ようぐんの番ばんをしていた。よろめいて歩あるいて来くる兄あにの、疲労ひろう困憊こんぱいの姿すがたを見みつけて驚おどろいた。そうして、うるさく兄あにに質問しつもんを浴あびせた。

「なんでも無ない。」メロスは無理むりに笑わらおうと努つとめた。「市しに用事ようじを残のこして来きた。またすぐ市しに行いかなければならぬ。あす、おまえの結婚けっこん式しきを挙あげる。早はやいほうがよかろう。」

妹いもうとは頬ほおをあからめた。

「うれしいか。綺麗きれいな衣裳いしょうも買かって来きた。さあ、これから行いって、村むらの人ひとたちに知しらせて来こい。結婚けっこん式しきは、あすだと。」

メロスは、また、よろよろと歩あるき出だし、家いえへ帰かえって神々かみがみの祭壇さいだんを飾かざり、祝宴しゅくえんの席せきを調ととのえ、間まもなく床ゆかに倒たおれ伏ふし、呼吸こきゅうもせぬくらいの深ふかい眠ねむりに落おちてしまった。

眼めが覚さめたのは夜よるだった。メロスは起おきてすぐ、花婿はなむこの家いえを訪おとずれた。そうして、少すこし事情じじょうがあるから、結婚けっこん式しきを明日あしたにしてくれ、と頼たのんだ。婿むこの牧人ぼくじんは驚おどろき、それはいけない、こちらには未いまだ何なんの仕度したくも出来できていない、葡萄ぶどうの季節きせつまで待まってくれ、と答こたえた。メロスは、待まつことは出来できぬ、どうか明日あしたにしてくれ給あたえ、と更さらに押おしてたのんだ。婿むこの牧人ぼくじんも頑強がんきょうであった。なかなか承諾しょうだくしてくれない。夜明よあけまで議論ぎろんをつづけて、やっと、どうにか婿むこをなだめ、すかして、説とき伏ふせた。結婚けっこん式しきは、真昼まひるに行おこなわれた。新郎しんろう新婦しんぷの、神々かみがみへの宣誓せんせいが済すんだころ、黒雲くろくもが空そらを覆おおい、ぽつりぽつり雨あめが降ふり出だし、やがて車軸しゃじくを流ながすような大雨おおあめとなった。祝宴しゅくえんに列席れっせきしていた村人むらびとたちは、何なにか不吉ふきつなものを感かんじたが、それでも、めいめい気持きもちを引ひきたて、狭せまい家いえの中なかで、むんむん蒸むし暑あついのも怺こらえ、陽気ようきに歌うたをうたい、手てを拍うった。メロスも、満面まんめんに喜色きしょくを湛たたえ、しばらくは、王おうとのあの約束やくそくをさえ忘わすれていた。祝宴しゅくえんは、夜よるに入はいっていよいよ乱みだれ華はなやかになり、人々ひとびとは、外そとの豪雨ごううを全まったく気きにしなくなった。メロスは、一生いっしょうこのままここにいたい、と思おもった。この佳よい人ひとたちと生涯しょうがい暮くらして行いきたいと願ねがったが、いまは、自分じぶんのからだで、自分じぶんのものでは無ない。ままならぬ事ことである。メロスは、わが身みに鞭打むちうち、ついに出発しゅっぱつを決意けついした。あすの日没にちぼつまでには、まだ十じゅう分ぶんの時ときが在ある。ちょっと一眠ひとねむりして、それからすぐに出発しゅっぱつしよう、と考かんがえた。その頃ころには、雨あめも小降こぶりになっていよう。少すこしでも永ながくこの家いえに愚図愚図ぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男おとこにも、やはり未練みれんの情じょうというものは在ある。今宵こよい呆然ぼうぜん、歓喜かんきに酔よっているらしい花嫁はなよめに近寄ちかより、

「おめでとう。私わたしは疲つかれてしまったから、ちょっとご免めんこうむって眠ねむりたい。眼めが覚さめたら、すぐに市しに出でかける。大切たいせつな用事ようじがあるのだ。私わたしがいなくても、もうおまえには優やさしい亭主ていしゅがあるのだから、決けっして寂さびしい事ことは無ない。おまえの兄あにの、一いちばんきらいなものは、人ひとを疑うたがう事ことと、それから、嘘うそをつく事ことだ。おまえも、それは、知しっているね。亭主ていしゅとの間あいだに、どんな秘密ひみつでも作つくってはならぬ。おまえに言いいたいのは、それだけだ。おまえの兄あには、たぶん偉えらい男おとこなのだから、おまえもその誇ほこりを持もっていろ。」

花嫁はなよめは、夢見心地ゆめみごこちで首肯うなずいた。メロスは、それから花婿はなむこの肩かたをたたいて、

「仕度したくの無ないのはお互たがいさまさ。私わたしの家いえにも、宝たからといっては、妹いもうとと羊ひつじだけだ。他ほかには、何なにも無ない。全部ぜんぶあげよう。もう一ひとつ、メロスの弟おとうとになったことを誇ほこってくれ。」

花婿はなむこは揉もみ手でして、てれていた。メロスは笑わらって村人むらびとたちにも会釈えしゃくして、宴席えんせきから立たち去さり、羊ひつじ小屋ごやにもぐり込こんで、死しんだように深ふかく眠ねむった。

眼めが覚さめたのは翌あくる日ひの薄明はくめいの頃ころである。メロスは跳はね起おき、南無三なむさん、寝過ねすごしたか、いや、まだまだ大丈夫だいじょうぶ、これからすぐに出発しゅっぱつすれば、約束やくそくの刻限こくげんまでには十分じゅうぶん間まに合あう。きょうは是非ぜひとも、あの王おうに、人ひとの信実しんじつの存そんするところを見みせてやろう。そうして笑わらって磔はりつけの台だいに上あがってやる。メロスは、悠々ゆうゆうと身仕度みじたくをはじめた。雨あめも、いくぶん小降こぶりになっている様子ようすである。身仕度みじたくは出来できた。さて、メロスは、ぶるんと両腕りょううでを大おおきく振ふって、雨中うちゅう、矢やの如ごとく走はしり出でた。

私わたしは、今宵こよい、殺ころされる。殺ころされる為ために走はしるのだ。身代みがわりの友ともを救すくう為ために走はしるのだ。王おうの奸佞かんねい邪智じゃちを打うち破やぶる為ために走はしるのだ。走はしらなければならぬ。そうして、私わたしは殺ころされる。若わかい時ときから名誉めいよを守まもれ。さらば、ふるさと。若わかいメロスは、つらかった。幾いく度どか、立たちどまりそうになった。えい、えいと大声おおごえ挙あげて自身じしんを叱しかりながら走はしった。村むらを出でて、野のを横切よこぎり、森もりをくぐり抜ぬけ、隣村となりむらに着ついた頃ころには、雨あめも止やみ、日ひは高たかく昇のぼって、そろそろ暑あつくなって来きた。メロスは額ひたいの汗あせをこぶしで払はらい、ここまで来くれば大丈夫だいじょうぶ、もはや故郷こきょうへの未練みれんは無ない。妹いもうとたちは、きっと佳よい夫婦ふうふになるだろう。私わたしには、いま、なんの気きがかりも無ない筈はずだ。まっすぐに王城おうじょうに行いき着つけば、それでよいのだ。そんなに急いそぐ必要ひつようも無ない。ゆっくり歩あるこう、と持もちまえの呑気のんきさを取とり返かえし、好すきな小歌こうたをいい声こえで歌うたい出だした。ぶらぶら歩あるいて二に里り行いき三さん里り行いき、そろそろ全ぜん里程りていの半なかばに到達とうたつした頃ころ、降ふって湧わいた災難さいなん、メロスの足あしは、はたと、とまった。見みよ、前方ぜんぽうの川かわを。きのうの豪雨ごううで山やまの水源すいげん地ちは氾濫はんらんし、濁流だくりゅう滔々とうとうと下流かりゅうに集あつまり、猛勢もうせい一挙いっきょに橋はしを破壊はかいし、どうどうと響ひびきをあげる激流げきりゅうが、木葉こっぱ微塵みじんに橋桁はしげたを跳はね飛とばしていた。彼かれは茫然ぼうぜんと、立たちすくんだ。あちこちと眺ながめまわし、また、声こえを限かぎりに呼よびたててみたが、繋舟けいしゅうは残のこらず浪なみに浚さらわれて影かげなく、渡守わたしもりの姿すがたも見みえない。流ながれはいよいよ、ふくれ上あがり、海うみのようになっている。メロスは川岸かわぎしにうずくまり、男泣おとこなきに泣なきながらゼウスに手てを挙あげて哀願あいがんした。「ああ、鎮しずめたまえ、荒あれ狂くるう流ながれを!時ときは刻々こっこくに過すぎて行いきます。太陽たいようも既すでに真昼時まひるどきです。あれが沈しずんでしまわぬうちに、王城おうじょうに行いき着つくことが出来できなかったら、あの佳よい友達ともだちが、私わたしのために死しぬのです。」

濁流だくりゅうは、メロスの叫さけびをせせら笑わらう如ごとく、ますます激はげしく躍おどり狂くるう。浪ろうは浪なみを呑のみ、捲まき、煽あおり立たて、そうして時ときは、刻こく一刻いっこくと消きえて行いく。今いまはメロスも覚悟かくごした。泳およぎ切きるより他ほかに無ない。ああ、神々かみがみも照覧しょうらんあれ!濁流だくりゅうにも負まけぬ愛あいと誠まことの偉大いだいな力ちからを、いまこそ発揮はっきして見みせる。メロスは、ざんぶと流ながれに飛とび込こみ、百匹ひゃっぴきの大蛇だいじゃのようにのた打うち荒あれ狂くるう浪なみを相手あいてに、必死ひっしの闘争とうそうを開始かいしした。満身まんしんの力ちからを腕うでにこめて、押おし寄よせ渦巻うずまき引ひきずる流ながれを、なんのこれしきと掻かきわけ掻かきわけ、めくらめっぽう獅子しし奮迅ふんじんの人ひとの子この姿すがたには、神かみも哀あわれと思おもったか、ついに憐愍れんびんを垂たれてくれた。押おし流ながされつつも、見事みごと、対岸たいがんの樹木じゅもくの幹みきに、すがりつく事ことが出来できたのである。ありがたい。メロスは馬うまのように大おおきな胴震どうぶるいを一ひとつして、すぐにまた先さきを急いそいだ。一刻いっこくといえども、むだには出来できない。陽ひは既すでに西にしに傾かたむきかけている。ぜいぜい荒あらい呼吸こきゅうをしながら峠とうげをのぼり、のぼり切きって、ほっとした時とき、突然とつぜん、目めの前まえに一隊いったいの山賊さんぞくが躍おどり出でた。

「待まて。」

「何なにをするのだ。私わたしは陽ひの沈しずまぬうちに王城おうじょうへ行いかなければならぬ。放はなせ。」

「どっこい放はなさぬ。持もちもの全部ぜんぶを置おいて行いけ。」

「私わたしにはいのちの他ほかには何なにも無ない。その、たった一ひとつの命いのちも、これから王おうにくれてやるのだ。」

「その、いのちが欲ほしいのだ。」

「さては、王おうの命令めいれいで、ここで私わたしを待まち伏ぶせしていたのだな。」

山賊さんぞくたちは、ものも言いわず一斉いっせいに棍棒こんぼうを振ふり挙あげた。メロスはひょいと、からだを折おり曲まげ、飛鳥あすかの如ごとく身近みぢかかの一人ひとりに襲おそいかかり、その棍棒こんぼうを奪うばい取とって、

「気きの毒どくだが正義せいぎのためだ!」と猛然もうぜん一撃いちげき、たちまち、三人さんにんを殴なぐり倒たおし、残のこる者もののひるむ隙すきに、さっさと走はしって峠とうげを下くだった。一気いっきに峠とうげを駈かけ降おりたが、流石さすがに疲労ひろうし、折おりから午後ごごの灼熱しゃくねつの太陽たいようがまともに、かっと照てって来きて、メロスは幾いく度どとなく眩暈めまいを感かんじ、これではならぬ、と気きを取とり直なおしては、よろよろ二、三にさん歩ぼあるいて、ついに、がくりと膝ひざを折おった。立たち上のぼる事ことが出来できぬのだ。天てんを仰あおいで、くやし泣なきに泣なき出だした。ああ、あ、濁流だくりゅうを泳およぎ切きり、山賊さんぞくを三人さんにんも撃うち倒たおし韋駄いだ天てん、ここまで突破とっぱして来きたメロスよ。真しんの勇者ゆうしゃ、メロスよ。今いま、ここで、疲つかれ切きって動うごけなくなるとは情無なさけない。愛あいする友ともは、おまえを信しんじたばかりに、やがて殺ころされなければならぬ。おまえは、稀代きたいの不信ふしんの人間にんげん、まさしく王おうの思おもう壺つぼだぞ、と自分じぶんを叱しかってみるのだが、全身ぜんしん萎なえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進ぜんしんかなわぬ。路傍ろぼうの草原そうげんにごろりと寝ねころがった。身体からだ疲労ひろうすれば、精神せいしんも共ともにやられる。もう、どうでもいいという、勇者ゆうしゃに不ふ似合にあいな不貞腐ふてくされた根性こんじょうが、心こころの隅すみに巣喰すくった。私わたしは、これほど努力どりょくしたのだ。約束やくそくを破やぶる心こころは、みじんも無なかった。神かみも照覧しょうらん、私わたしは精せい一いっぱいに努つとめて来きたのだ。動うごけなくなるまで走はしって来きたのだ。私わたしは不信ふしんの徒とでは無ない。ああ、できる事ことなら私わたしの胸むねを截たち割わって、真紅しんくの心臓しんぞうをお目めに掛かけたい。愛あいと信実しんじつの血液けつえきだけで動うごいているこの心臓しんぞうを見みせてやりたい。けれども私わたしは、この大事だいじな時ときに、精せいも根こんも尽つきたのだ。私わたしは、よくよく不幸ふこうな男おとこだ。私わたしは、きっと笑わらわれる。私わたしの一家いっかも笑わらわれる。私わたしは友ともを欺あざむいた。中途ちゅうとで倒たおれるのは、はじめから何なにもしないのと同おなじ事ことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私わたしの定さだまった運命うんめいなのかも知しれない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君きみは、いつでも私わたしを信しんじた。私わたしも君きみを、欺あざむかなかった。私わたしたちは、本当ほんとうに佳よい友ともと友ともであったのだ。いちどだって、暗くらい疑惑ぎわくの雲くもを、お互たがい胸むねに宿やどしたことは無なかった。いまだって、君きみは私わたしを無心むしんに待まっているだろう。ああ、待まっているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私わたしを信しんじてくれた。それを思おもえば、たまらない。友ともと友ともの間あいだの信実しんじつは、この世よで一いちばん誇ほこるべき宝たからなのだからな。セリヌンティウス、私わたしは走はしったのだ。君きみを欺あざむくつもりは、みじんも無なかった。信しんじてくれ!私わたしは急いそぎに急いそいでここまで来きたのだ。濁流だくりゅうを突破とっぱした。山賊さんぞくの囲かこみからも、するりと抜ぬけて一気いっきに峠とうげを駈かけ降おりて来きたのだ。私わたしだから、出来できたのだよ。ああ、この上うえ、私わたしに望のぞみ給たまうな。放ほうって置おいてくれ。どうでも、いいのだ。私わたしは負まけたのだ。だらしが無ない。笑わらってくれ。王おうは私わたしに、ちょっとおくれて来こい、と耳打みみうちした。おくれたら、身代みがわりを殺ころして、私わたしを助たすけてくれると約束やくそくした。私わたしは王おうの卑劣ひれつを憎にくんだ。けれども、今いまになってみると、私わたしは王おうの言いうままになっている。私わたしは、おくれて行いくだろう。王おうは、ひとり合点がってんして私わたしを笑わらい、そうして事ことも無なく私わたしを放免ほうめんするだろう。そうなったら、私わたしは、死しぬよりつらい。私わたしは、永遠えいえんに裏切うらぎり者ものだ。地上ちじょうで最もっとも、不ふ名誉めいよの人種じんしゅだ。セリヌンティウスよ、私わたしも死しぬぞ。君きみと一緒いっしょに死しなせてくれ。君きみだけは私わたしを信しんじてくれるにちがい無ない。いや、それも私わたしの、ひとりよがりか?ああ、もういっそ、悪徳あくとく者しゃとして生いき伸のびてやろうか。村むらには私わたしの家いえが在ある。羊ひつじも居いる。妹いもうと夫婦ふうふは、まさか私わたしを村むらから追おい出だすような事ことはしないだろう。正義せいぎだの、信実しんじつだの、愛あいだの、考かんがえてみれば、くだらない。人ひとを殺ころして自分じぶんが生いきる。それが人間にんげん世界せかいの定法じょうほうではなかったか。ああ、何なにもかも、ばかばかしい。私わたしは、醜みにくい裏切うらぎり者ものだ。どうとも、勝手かってにするがよい。やんぬる哉かな。――四肢ししを投なげ出だして、うとうと、まどろんでしまった。

ふと耳みみに、潺々せんせん、水みずの流ながれる音おとが聞きこえた。そっと頭あたまをもたげ、息いきを呑のんで耳みみをすました。すぐ足あしもとで、水みずが流ながれているらしい。よろよろ起おき上あがって、見みると、岩いわの裂目さけめから滾々こんこんと、何なにか小ちいさく囁ささやきながら清水しみずが湧わき出でているのである。その泉いずみに吸すい込こまれるようにメロスは身みをかがめた。水みずを両手りょうてで掬すくって、一ひとくち飲のんだ。ほうと長ながい溜息ためいきが出でて、夢ゆめから覚さめたような気きがした。歩あるける。行いこう。肉体にくたいの疲労ひろう恢復かいふくと共ともに、わずかながら希望きぼうが生うまれた。義務ぎむ遂行すいこうの希望きぼうである。わが身みを殺ころして、名誉めいよを守まもる希望きぼうである。斜陽しゃようは赤あかい光ひかりを、樹々きぎの葉はに投とうじ、葉はも枝えだも燃もえるばかりに輝かがやいている。日没にちぼつまでには、まだ間まがある。私わたしを、待まっている人ひとがあるのだ。少すこしも疑うたがわず、静しずかに期待きたいしてくれている人ひとがあるのだ。私わたしは、信しんじられている。私わたしの命いのちなぞは、問題もんだいではない。死しんでお詫わび、などと気きのいい事ことは言いって居いられぬ。私わたしは、信頼しんらいに報むくいなければならぬ。いまはただその一事いちじだ。走はしれ!メロス。

私わたしは信頼しんらいされている。私わたしは信頼しんらいされている。先刻せんこくの、あの悪魔あくまの囁ささやきは、あれは夢ゆめだ。悪わるい夢ゆめだ。忘わすれてしまえ。五臓ごぞうが疲つかれているときは、ふいとあんな悪わるい夢ゆめを見みるものだ。メロス、おまえの恥はじではない。やはり、おまえは真しんの勇者ゆうしゃだ。再ふたたび立たって走はしれるようになったではないか。ありがたい!私わたしは、正義せいぎの士しとして死しぬ事ことが出来できるぞ。ああ、陽ひが沈しずむ。ずんずん沈しずむ。待まってくれ、ゼウスよ。私わたしは生うまれた時ときから正直しょうじきな男おとこであった。正直しょうじきな男おとこのままにして死しなせて下ください。

路みち行いく人ひとを押おしのけ、跳はねとばし、メロスは黒くろい風かぜのように走はしった。野原のはらで酒宴しゅえんの、その宴席えんせきのまっただ中なかを駈かけ抜ぬけ、酒宴しゅえんの人ひとたちを仰天ぎょうてんさせ、犬いぬを蹴けとばし、小川おがわを飛とび越こえ、少すこしずつ沈しずんでゆく太陽たいようの、十じゅう倍ばいも早はやく走はしった。一団いちだんの旅人たびびとと颯さっっとすれちがった瞬間しゅんかん、不吉ふきつな会話かいわを小耳こみみにはさんだ。「いまごろは、あの男おとこも、磔はりつけにかかっているよ。」ああ、その男おとこ、その男おとこのために私わたしは、いまこんなに走はしっているのだ。その男おとこを死しなせてはならない。急いそげ、メロス。おくれてはならぬ。愛あいと誠まことの力ちからを、いまこそ知しらせてやるがよい。風態ふうていなんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全ぜん裸体らたいであった。呼吸こきゅうも出来できず、二に度ど、三さん度ど、口くちから血ちが噴ふき出でた。見みえる。はるか向むこうに小ちいさく、シラクスの市しの塔楼とうろうが見みえる。塔楼とうろうは、夕陽ゆうひを受うけてきらきら光ひかっている。

「ああ、メロス様さま。」うめくような声こえが、風かぜと共ともに聞きこえた。

「誰だれだ。」メロスは走はしりながら尋たずねた。

「フィロストラトスでございます。貴方あなたのお友達ともだちセリヌンティウス様さまの弟子でしでございます。」その若わかい石工いしくも、メロスの後あとについて走はしりながら叫さけんだ。「もう、駄目だめでございます。むだでございます。走はしるのは、やめて下ください。もう、あの方かたをお助たすけになることは出来できません。」

「いや、まだ陽ひは沈しずまぬ。」

「ちょうど今いま、あの方かたが死刑しけいになるところです。ああ、あなたは遅おそかった。おうらみ申もうします。ほんの少すこし、もうちょっとでも、早はやかったなら!」

「いや、まだ陽ひは沈しずまぬ。」メロスは胸むねの張はり裂さける思おもいで、赤あかく大おおきい夕陽ゆうひばかりを見みつめていた。走はしるより他ほかは無ない。

「やめて下ください。走はしるのは、やめて下ください。いまはご自分じぶんのお命いのちが大事だいじです。あの方かたは、あなたを信しんじて居おりました。刑場けいじょうに引ひき出だされても、平気へいきでいました。王おう様さまが、さんざんあの方かたをからかっても、メロスは来きます、とだけ答こたえ、強つよい信念しんねんを持もちつづけている様子ようすでございました。」

「それだから、走はしるのだ。信しんじられているから走はしるのだ。間まに合あう、間まに合あわぬは問題もんだいでないのだ。人ひとの命いのちも問題もんだいでないのだ。私わたしは、なんだか、もっと恐おそろしく大おおきいものの為ために走はしっているのだ。ついて来こい!フィロストラトス。」

「ああ、あなたは気きが狂くるったか。それでは、うんと走はしるがいい。ひょっとしたら、間まに合あわぬものでもない。走はしるがいい。」

言いうにや及およぶ。まだ陽ひは沈しずまぬ。最後さいごの死力しりょくを尽つくして、メロスは走はしった。メロスの頭あたまは、からっぽだ。何なに一ひとつ考かんがえていない。ただ、わけのわからぬ大おおきな力ちからにひきずられて走はしった。陽ひは、ゆらゆら地平ちへい線せんに没ぼっし、まさに最後さいごの一片いっぺんの残光ざんこうも、消きえようとした時とき、メロスは疾風しっぷうの如ごとく刑場けいじょうに突入とつにゅうした。間まに合あった。

「待まて。その人ひとを殺ころしてはならぬ。メロスが帰かえって来きた。約束やくそくのとおり、いま、帰かえって来きた。」と大声おおごえで刑場けいじょうの群衆ぐんしゅうにむかって叫さけんだつもりであったが、喉のどがつぶれて嗄しわがれた声こえが幽かすかに出でたばかり、群衆ぐんしゅうは、ひとりとして彼かれの到着とうちゃくに気きがつかない。すでに磔はりつけの柱はしらが高々たかだかと立たてられ、縄なわを打うたれたセリヌンティウスは、徐々じょじょに釣つり上あげられてゆく。メロスはそれを目撃もくげきして最後さいごの勇ゆう、先刻せんこく、濁流だくりゅうを泳およいだように群衆ぐんしゅうを掻かきわけ、掻かきわけ、

「私わたしだ、刑吏けいり!殺ころされるのは、私わたしだ。メロスだ。彼かれを人質ひとじちにした私わたしは、ここにいる!」と、かすれた声こえで精せい一いっぱいに叫さけびながら、ついに磔はりつけ台だいに昇り、釣つり上あげられてゆく友ともの両足りょうあしに、齧かじりついた。群衆ぐんしゅうは、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々くちぐちにわめいた。セリヌンティウスの縄なわは、ほどかれたのである。

「セリヌンティウス。」メロスは眼めに涙なみだを浮うかべて言いった。「私わたしを殴なぐれ。ちから一いっぱいに頬ほおを殴なぐれ。私わたしは、途中とちゅうで一いち度ど、悪わるい夢ゆめを見みた。君きみが若もし私わたしを殴なぐってくれなかったら、私わたしは君きみと抱擁ほうようする資格しかくさえ無ないのだ。殴なぐれ。」

セリヌンティウスは、すべてを察さっした様子ようすで首肯うなずき、刑場けいじょう一いっぱいに鳴なり響ひびくほど音おと高たかくメロスの右頬みぎほおを殴なぐった。殴なぐってから優やさしく微笑ほほえみ、

「メロス、私わたしを殴なぐれ。同おなじくらい音おと高たかく私わたしの頬ほおを殴なぐれ。私わたしはこの三日みっかの間あいだ、たった一いち度どだけ、ちらと君きみを疑うたがった。生うまれて、はじめて君きみを疑うたがった。君きみが私わたしを殴なぐってくれなければ、私わたしは君きみと抱擁ほうようできない。」

メロスは腕うでに唸うなりをつけてセリヌンティウスの頬ほおを殴なぐった。

「ありがとう、友ともよ。」二人ふたり同時どうじに言いい、ひしと抱だき合あい、それから嬉うれし泣なきにおいおい声こえを放はなって泣ないた。

群衆ぐんしゅうの中なかからも、歔欷きょきの声こえが聞きこえた。暴君ぼうくんディオニスは、群衆ぐんしゅうの背後はいごから二人ふたりの様さまを、まじまじと見みつめていたが、やがて静しずかに二人ふたりに近ちかづき、顔かおをあからめて、こう言いった。

「おまえらの望のぞみは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心こころに勝かったのだ。信実しんじつとは、決けっして空虚くうきょな妄想もうそうではなかった。どうか、わしをも仲間なかまに入いれてくれまいか。どうか、わしの願ねがいを聞きき入いれて、おまえらの仲間なかまの一人ひとりにしてほしい。」

どっと群衆ぐんしゅうの間あいだに、歓声かんせいが起おこった。

「万歳ばんざい、王おう様さま万歳ばんざい。」

ひとりの少女しょうじょが、緋ひのマントをメロスに捧ささげた。メロスは、まごついた。佳よき友ともは、気きをきかせて教おしえてやった。

「メロス、君きみは、まっぱだかじゃないか。早はやくそのマントを着きるがいい。この可愛かわいい娘むすめさんは、メロスの裸体らたいを、皆みなに見みられるのが、たまらなく口惜くやしいのだ。」

勇者ゆうしゃは、ひどく赤面せきめんした。

(古こ伝説でんせつと、シルレルの詩しから。)