杜子春

Source text: 青空文庫 Pitch accent analysis: akusento parser
Legend
Atamadaka
Heiban
Nakadaka
Odaka
Kifuku
Accent drop
Devoiced
Rules applied
* Patterns are assigned based on the lexical pitch accent.
Rendered chapter

二人ふたりを乗のせた青竹あおだけは、間まもなく峨眉山がびさんへ舞まい下さがりました。

そこは深ふかい谷たにに臨のぞんだ、幅はばの広ひろい一いち枚まい岩いわの上うえでしたが、よくよく高たかい所ところだと見みえて、中空なかぞらに垂たれた北斗ほくとの星ほしが、茶碗ちゃわん程ほどの大おおきさに光ひかっていました。元もとより人跡じんせきの絶たえた山やまですから、あたりはしんと静しずまり返かえって、やっと耳みみにはいるものは、後うしろの絶壁ぜっぺきに生はえている、曲まがりくねった一株ひとかぶの松まつが、こうこうと夜風よかぜに鳴なる音おとだけです。

二人ふたりがこの岩いわの上うえに来くると、鉄冠子てっかんしは杜と子春ししゅんを絶壁ぜっぺきの下したに坐すわらせて、

「おれはこれから天上てんじょうへ行いって、西王母せいおうぼに御お眼めにかかって来くるから、お前まえはその間あいだここに坐すわって、おれの帰かえるのを待まっているが好いい。多分たぶんおれがいなくなると、いろいろな魔性ましょうが現あらわれて、お前まえをたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起おころうとも、決けっして声こえを出だすのではないぞ。もし一言ひとことでも口くちを利きいたら、お前まえは到底とうてい仙人せんにんにはなれないものだと覚悟かくごをしろ。好いいか。天地てんちが裂さけても、黙だまっているのだぞ」と言いいました。

「大丈夫だいじょうぶです。決けっして声こえなぞは出だしません。命いのちがなくなっても、黙だまっています」

「そうか。それを聞きいて、おれも安心あんしんした。ではおれは行いって来くるから」

老人ろうじんは杜と子春ししゅんに別わかれを告つげると、又またあの竹杖たけづえに跨またがって、夜目よめにも削けずったような山々やまやまの空そらへ、一いち文字もじに消きえてしまいました。

杜と子春ししゅんはたった一人ひとり、岩いわの上うえに坐すわったまま、静しずかに星ほしを眺ながめていました。するとかれこれ半時はんときばかり経たって、深山しんざんの夜気やきが肌寒はだざむく薄うすい着物きものに透とおり出だした頃ころ、突然とつぜん空中くうちゅうに声こえがあって、

「そこにいるのは何者なにものだ」と、叱しかりつけるではありませんか。

しかし杜と子春ししゅんは仙人せんにんの教おしえ通とおり、何なんとも返事へんじをしずにいました。

ところが又また暫しばらくすると、やはり同おなじ声こえが響ひびいて、

「返事へんじをしないと立たちどころに、命いのちはないものと覚悟かくごしろ」と、いかめしく嚇おどしつけるのです。

杜と子春ししゅんは勿論もちろん黙だまっていました。

と、どこから登のぼって来きたか、爛々らんらんと眼めを光ひからせた虎とらが一匹いっぴき、忽然こつぜんと岩いわの上うえに躍おどり上あがって、杜と子春ししゅんの姿すがたを睨にらみながら、一声ひとこえ高たかく哮たけりました。のみならずそれと同時どうじに、頭あたまの上うえの松まつの枝えだが、烈はげしくざわざわ揺ゆれたと思おもうと、後うしろの絶壁ぜっぺきの頂いただきからは、四斗樽しとだる程ほどの白蛇はくだが一匹いっぴき、炎ほのおのような舌したを吐はいて、見みる見みる近ちかくへ下おりて来くるのです。

杜と子春ししゅんはしかし平然へいぜんと、眉毛まゆげも動うごかさずに坐すわっていました。

虎とらと蛇へびとは、一ひとつ餌食えじきを狙ねらって、互たがいに隙すきでも窺うかがうのか、暫しばらくは睨合にらみあいの体ていでしたが、やがてどちらが先さきともなく、一時いちじに杜と子春ししゅんに飛とびかかりました。が虎とらの牙きばに噛かまれるか、蛇へびの舌したに呑のまれるか、杜と子春ししゅんの命いのちは瞬またたく内うちに、なくなってしまうと思おもった時とき、虎とらと蛇へびとは霧きりの如ごとく、夜風よかぜと共ともに消きえ失うせて、後あとには唯ただ、絶壁ぜっぺきの松まつが、さっきの通とおりこうこうと枝えだを鳴ならしているばかりなのです。杜と子春ししゅんはほっと一息ひといきしながら、今度こんどはどんなことが起おこるかと、心待こころまちに待まっていました。

すると一陣いちじんの風かぜが吹ふき起おこって、墨すみのような黒雲くろくもが一面いちめんにあたりをとざすや否いなや、うす紫むらさきの稲妻いなずまがやにわに闇やみを二ふたつに裂さいて、凄すさまじく雷かみなりが鳴なり出だしました。いや、雷かみなりばかりではありません。それと一いっしょに瀑ばくのような雨あめも、いきなりどうどうと降ふり出だしたのです。杜と子春ししゅんはこの天変てんぺんの中なかに、恐おそれ気げもなく坐すわっていました。風かぜの音おと、雨あめのしぶき、それから絶たえ間まない稲妻いなずまの光ひかり、――暫しばらくはさすがの峨眉山がびさんも、覆くつがえるかと思おもう位くらいでしたが、その内うちに耳みみをもつんざく程ほど、大おおきな雷鳴らいめいが轟とどろいたと思おもうと、空そらに渦巻うずまいた黒雲くろくもの中なかから、まっ赤かな一本いっぽんの火柱ひばしらが、杜と子春ししゅんの頭あたまへ落おちかかりました。

杜と子春ししゅんは思おもわず耳みみを抑おさえて、一いち枚まい岩いわの上うえへひれ伏ふしました。が、すぐに眼めを開ひらいて見みると、空そらは以前いぜんの通とおり晴はれ渡わたって、向むこうに聳そびえた山々やまやまの上うえにも、茶碗ちゃわんほどの北斗ほくとの星ほしが、やはりきらきら輝かがやいています。して見みれば今いまの大おおあらしも、あの虎とらや白蛇はくじゃと同おなじように、鉄冠子てっかんしの留守るすをつけこんだ、魔性ましょうの悪戯いたずらに違ちがいありません。杜と子春ししゅんは漸ようやく安心あんしんして、額がくの冷汗ひやあせを拭ぬぐいながら、又また岩いわの上うえに坐すわり直なおしました。

が、そのため息いきがまだ消きえない内うちに、今度こんどは彼かれの坐すわっている前まえへ、金きんの鎧よろいを着下きくだした、身みの丈たけ三丈さんじょうもあろうという、厳おごそかな神将しんしょうが現あらわれました。神将しんしょうは手てに三叉みつまたの戟ほこを持もっていましたが、いきなりその戟ほこの切先きっさきを杜と子春ししゅんの胸むなもとへ向むけながら、眼めを嗔いからせて叱しかりつけるのを聞きけば、

「こら、その方かたは一体いったい何物なにものだ。この峨眉山がびさんという山やまは、天地てんち開闢かいびゃくの昔むかしから、おれが住居すまいをしている所ところだぞ。それも憚はばからずたった一人ひとり、ここへ足あしを踏ふみ入いれるとは、よもや唯ただの人間にんげんではあるまい。さあ命いのちが惜おしかったら、一刻いっこくも早はやく返答へんとうしろ」と言いうのです。

しかし杜と子春ししゅんは老人ろうじんの言葉ことば通どおり、黙然もくねんと口くちを噤つぐんでいました。

「返事へんじをしないか。――しないな。好よし。しなければ、しないで勝手かってにしろ。その代かわりおれの眷属けんぞくたちが、その方かたをずたずたに斬きってしまうぞ」

神将しんしょうは戟ほこを高たかく挙あげて、向むこうの山やまの空そらを招まねきました。その途端とたんに闇やみがさっと裂さけると、驚おどろいたことには無数むすうの神兵しんぺいが、雲くもの如ごとく空そらに充満みちみちて、それが皆みな槍やりや刀かたなをきらめかせながら、今いまにもここへ一ひとなだれに攻せめ寄よせようとしているのです。

この景色けしきを見みた杜と子春ししゅんは、思おもわずあっと叫さけびそうにしましたが、すぐに又また鉄冠子てっかんしの言葉ことばを思おもい出だして、一生いっしょう懸命けんめいに黙だまっていました。神将しんしょうは彼かれが恐おそれないのを見みると、怒おこったの怒おこらないのではありません。

「この剛ごう情じょう者しゃめ。どうしても返事へんじをしなければ、約束やくそく通どおり命いのちはとってやるぞ」

神将しんしょうはこう喚わめくが早はやいか、三叉みつまたの戟ほこを閃ひらめかせて、一突ひとつきに杜と子春ししゅんを突つき殺ころしました。そうして峨眉山がびさんもどよむ程ほど、からからと高たかく笑わらいながら、どこともなく消きえてしまいました。勿論もちろんこの時ときはもう無数むすうの神兵しんぺいも、吹ふき渡わたる夜風よかぜの音おとと一いっしょに、夢ゆめのように消きえ失うせた後あとだったのです。

北斗ほくとの星ほしは又また寒さむそうに、一いち枚まい岩いわの上うえを照てらし始はじめました。絶壁ぜっぺきの松まつも前まえに変かわらず、こうこうと枝えだを鳴ならせています。が、杜と子春ししゅんはとうに息いきが絶たえて、仰向あおむけにそこへ倒たおれていました。